「アフリカの子どもたちは・・・」
子どもの頃、そう言われた。
とかく文句ばかりでる子どもに、
世の中、恵まれない存在があるのだということを
親なりに伝えたかったのかもしれない。
そんなとき、子どもの私は
「そんなこと言われたって自分は日本にいるんだから
比べられても困る」
そう思っていた。
夫は 「中国の子どもたちは」というセリフで育ったそうだ。
こういう、自分たちより「不幸」な存在を「知らしめる」ことで
自分の「幸せ」を感じさせようという方法は、世界共通なのか。
そして今、私達は
「アフリカの子どもたち」
というセリフを子に言ってしまっている。
言いながらも、どこか違うんだよな、そう思っている自分がいる。
◇
2週間ほど前、私はメンテナンスが必要な庭に怒っていた。
抜いても抜いても生えてくる雑草、薬が必要な木々、ミニミニのくせに
いっちょまえに手のかかる池・・・
庭の手入れとかしている時間もお金もないけれど
ほおっておくにはいかないから、夕食後とか時間を見つけては
とりあえずたんぽぽだけは増やすまいと
抜いていた。
1週間後、庭のはじまでいった。
たんぽぽの根は深くて、薬を使わずではなかなか退治できないものだけれど
いちおう地上にでている分の根はとっていたから
次に芽がでてくるまでちょっとは時間がかかるはずと思っていた。
「さあ、これでしばらく解放されたぞ」
ウキウキと家にもどりかけてふと目をあげると
1週間前に雑草とりをしていた部分に、すでに無数のたんぽぽが生えていた・・・
腰の痛みをがまんしながら
がっかりして家に入ると、夫がソファでのんびりテレビをみていた。
突然怒りが湧いてきて私は怒鳴った。
「切れ、庭の木をすべて切ってしまえ!」
◇
問題は、雑草ではない。木でもない。
やたらメンテのかかる庭でもない。
ましてや、仕事から帰ってきてひと息ついていた夫でもない。
問題は、私、なのだ。
◇
幸せという価値・価値観は、物差しでははかれない。
だから無限にひろがる可能性があるかわりに
逆方向にいってしまうと
底なしでどんどん落ちてしまう可能性もある。
幸せというものは、他人に指摘されて感じるものでもないから
人からどのように言われようと諭されようと
自分が感じられなければ、「幸せ」ではなくなる。
そして、世の中なぜか幸せばかり追求する風潮があるから
「幸せ」を得るためにがんばろうと思ったりする。
幸せとはなにか、
人は幸せでなければいけないのか、
なにをもって幸せとするのか。
◇
人が、人の心が、満たされていれば
そこには幸せがある。
なにも血汗流す努力をせずとも今の状態のままでも、
見方さえ変えることができれば
幸せなんてそこらへんにいっぱい転がっている。
幸せとはそんなもののはず。
そしてそれは決して物の豊かさやお金の有無では
はかれないものだということは
誰もが知っている。
だからこそ、「アフリカの子ども」などと例をだしておきながら
違和感を覚えるのだろう。
そりゃ確かに、自分のほうが物質的には恵まれているかもしれないが
自分のほうが幸せだなんて誰が言える?
考えるより感じよ。
これが今の私に欠けていること。