お、雹がふってきた。
う〜ん、やたら大きな音をたてているなあ
まさか屋根に穴があくことはあるまい?
それよりも、デイナが震えていることのほうが気になる。
雷はね、恐すぎるのか、吐いてしまうのです。
だから雷が鳴りはじめると
テレビを大音量でつけて、おやつをもちだして、
いっぱい遊ぶ。
花火のときも同じ。
まさか雹では吐くまい?!
ウーン /(-_-)\
さて、本日2回目の更新です。
開放感ありすぎ。
犬は見かけじゃないですが
人間は見かけです。
ええ、見かけです、見かけ勝負!
あら、私としたことが意外なことを言うな〜と思いました?
まあね、私もそう言われたらあーだーこーだ説いていそうな時期が
あったことは白状します。
中学校のときだったかな、
ある先生がね、熱かったんですよ。

あまり似ていない気も・・・(-_-)ゞ゛
いつも、腕まくりして、大きな声で、鼻息荒く
「男は顔だっ」と叫んでいた。
そのときは、センセアツイヨと冷めた子だったのですけど(すみません)
今、思うのです。
やっぱり男は、いや、人間、顔です。はい。
ほらね、私は30代半ばなのですが、こう、なんていいますか
今まで生きてきたことが、顔に表れだした気がするのです。
で、未熟な私は今まで
世の中の悩みをすべて背にしているかのように
しかめっつらばかりしてきたから
顔の皺が深くなってきた・・・
とくにコロラドに来てからは、
自分の夢とか希望とか失ってしまったから
毎日が苦痛でたまらなかった。
そういう10年間が、顔にね、
顕れてしまっている。
◇
今、森毅さんの
『
考えすぎないほうがうまくいく―“やわらか発想・寄り道思考”のススメ (知的生きかた文庫)』
という本を読んでいます。
森毅さんの本は、大学時代によく読んで感動したり共感した。
だから、日本に里帰りしたときにみつけたこの本は、迷わず買って
コロラドにまでもってきた。
それからどれくらいの月日が経ったのかわからないけれども
日本語の本が読みたくなって今開く・・・
あんなに共感したものがあったのに、今では違和感を覚えることも多々。
自身では意識していなかったけれど
良くも悪くも自分も年をとったということかな、なんて思った。
でも、そのなかで、とても印象に残る文章があった。
ぼくは六十になったとき、これからをどう生きるか考えた。三十のとき、自分はなにをしたと、過去の遺産で生きるのはつらい。体の物質はどんどん入れかわっているし、頭の配線も組みかわっている。それなら、二十年前の自分は赤の他人と思おう。こうしてぼくは「人生二十年節」を唱えている。・・・
人生を八十年とすると、四回も人生があることになる。現代の不幸は、二十からの第二の人生が、それまでの第一の人生で決まるように思いすぎることだ。・・・
第二の人生に奉仕するための第一の人生や、第三の人生に奉仕するための第二の人生では、暗い。そして、第一の人生で準備した第二の人生や、第二の人生で準備した第三の人生も暗い。それよりは、さしあたりの二十年ほどを、ひとつの人生として輝いたほうがよい。その人生を輝いたなら、次の新しい人生も輝きやすい。それに、四回あると思えば、そのうちのひとつぐらい、うまくいかなくてもどうということはない。人生八十年の時代に、ひとつながりで生きるのは、長すぎる。・・・
第一章内 pp18-19 (自分を大きく変えるチャンスは"四回"ある!)
買ったばかりのときに読んだときは、実感なかったのだけれど
今はこれがよくわかる。
わかる、というか、今の私にはとてもありがたい見方だった。
今までの私は、30代半ばになりながら、
失敗ばかりの人生だったから
これからの人生も失敗だらけになるように思えていた。
私は人生五十年と思って生きているのだけれども
でも、「人生二十年節」という見方で、
数年後には第三の人生が待っているのだと思うと
なんて楽しみなことか!
◇
第三の人生はどんなものにしよう?
顔の皺ひとつでも、それがネガティブなものではなく
自分で自信をもって語れるような、
そんな顔になれる、人生にしたい。